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東京家庭裁判所 昭和52年(家)6562号 審判

申立人 高野竹野

主文

本籍秋田県本荘市大町一二番地筆頭者伊藤司の戸籍中、同人の身分事項欄の舒桂との婚姻事項(昭和五二年二月五日付訂正にかかるもの)及び舒に対する認知事項を消除し、長男荘一の戸籍全部を消除することを許可する。

理由

第一申立の趣旨及び実情

一  申立の趣旨

主文と同旨の審判を求めた。

二  申立の実情

1  申立人は、申立の趣旨記載の伊藤司の実母であり、伊藤司は、申立人と先夫亡伊藤荘治との間の長男であって、昭和一五年二月二六日朝鮮京城府において出生したものである。

2  申立人と伊藤荘治は、昭和一九年に司及び他の子とともに中国(満洲)に渡り、夫荘治は間もなく現地召集となっていたところ、終戦の際申立人は司を中国人に預け、その後申立人は司を置いたまま他の子を連れて帰国し、申立人自身はその後高野英彦と再婚した。

3  申立人は、中国に残した長男司を探していたところ、曲民利なる者が申立人の子の伊藤司であると称して申立人と文通するようになり、昭和四九年一二月三日中国から妻子を伴なって帰国したのであるが、申立人はその頃から疑いを持つに至り、その後曲民利は申立人の子司ではないと確信するに至った。

4  ところが、曲民利は伊藤司であると称して妻舒桂と婚姻届及び舒の認知届をなし、また長男荘一の出生届をなしたため、筆頭者伊藤司の戸籍中、伊藤司の身分事項欄に「昭和五〇年一二月一一日国籍中国舒桂(西暦一九四〇年五月四日生)と婚姻届出同月二〇日東京都江東区長から送付」、「昭和五〇年一二月一一日国籍中国舒(西暦一九七〇年二月四日生)を認知届出昭和五一年二月二七日東京都江東区長から送付」と記載され、父伊藤司、母舒桂の長男荘一(昭和四八年一一月二八日生)が入籍するに至った(右荘一の身分事項欄は「昭和四八年一一月二八日中華人民共和国黒竜江省哈爾浜市で出生昭和五〇年一二月一一日父届出昭和五一年二月二七日東京都江東区長から送付入籍」とある。)。もっともその後右のうち伊藤司の婚姻事項は昭和五二年二月三日付許可を得て同月五日「昭和四八年一月一八日国籍中国舒桂(西暦一九四〇年五月四日生)と同国の方式により婚姻昭和五〇年一二月一一日婚姻証書提出同月二〇日東京都江東区長から送付」と訂正された。

5  しかしながら右の記載はいずれも曲民利に関するものではあっても伊藤司に関するものではなく、また右荘一なる子は曲民利の子であって伊藤司の子でないことは明らかであるから、申立の趣旨記載のとおり戸籍の訂正の許可を求める。

第二当裁判所の判断

一  本件の経過

本件における資料、調査及び証拠調の結果並びに当庁昭和五二年(家)第八三七五号就籍許可事件(以下単に「曲民利にかかる就籍許可事件」などという。)の記録中の各資料によれば、後記1ないし5の事実が認められる。

右の資料等のうち主なものは次のとおりである。

(1)  本件における主な資料、調査及び証拠調の結果《省略》

(2)  曲民利にかかる就籍許可事件記録中の主な資料《省略》

1 申立人が中国に伊藤司を残して帰国した経緯

申立人は、昭和六、七年頃先夫伊藤荘治(明治四〇年一月一〇日生)と結婚し(昭和一二年一一月二四日婚姻届)、昭和七年一〇月一七日長女信子を、昭和一〇年二月四日二女洋子を(出生地秋田県本荘町)、昭和一二年一〇月一一日三女光子を(出生地大阪市)それぞれもうけ、その後一家は朝鮮に渡り、昭和一五年二月二六日朝鮮京城府芳山町四番地の四二において長男伊藤司をもうけたが、その後申立人の一家は更に東京都に移り、昭和一八年七月二八日二男隆二の出生をみた。

昭和一九年九月、申立人の一家は東京開拓団の一員として満州に渡り、ハルピン郊外の顧郷屯に落ちついたが、昭和二〇年七月には夫荘治が現地召集となり(昭和二一年二月二五日ソ連収容所で戦病死)、残された申立人は引き続くソ連参戦、終戦の中、子を連れて開拓団と行動を共にし、昭和二〇年一一月ハルピン郊外の阿城の収容所に集結した(この間昭和二〇年九月一三日に二男隆二が死亡した)。

当時収容所では食糧が乏しく、しかも厳寒の中で死亡する子が相次ぎ、昭和二一年二月二三日には申立人の長女信子をも失なったため、申立人は二女洋子及び三女光子を付近の中国人に預け、更に長男司も栄養失調に加え足に高度の凍傷を負い収容所では生命も危ぶまれたので、申立人は昭和二一年三月一六日、収容所を訪れた中国人でハルピンにおいて花屋を営んでいるという王于云に司を預けた(申立人はその際手帳に「浜江省哈尓浜市道外太古南五道街六九号王于云(司昭和二十一年三月十六日)」と書きつけた。)。

申立人はその後帰国することとなり、二女洋子及び三女光子は中国人の許から返してもらったが、長男司についてはハルピンに出入りすることが困難であったため断念し、昭和二一年九月日本に引き揚げた。その後申立人は昭和二三年六月頃現在の夫高野英彦と再婚することとなり、高野の親族を頼って肩書地に落ち着くこととなった(高野との婚姻届は昭和三〇年七月一六日)。

そして、申立人は中国に残した司の消息を得たいと考え、昭和二六年、二九年にそれぞれ所管の外務省、厚生省に未帰還者消息調査依頼書を提出していた。

2 曲民利の成長に関する経緯

現在伊藤司を称している者(かつて中国において曲民利の名を用いていたので、本件において「曲民利」という。)は、幼時に中国人の里子(中国において法律上の養子であるか否かは判然としない。)となったもので、それ以前のことは曲民利自身正確な記憶を有していないが、おぼろげな記憶によると、初め高い木のある部落の赤レンガの家にいたようであり、父と思われる男がいたが、ある日馬に乗った男が何人か来て、父らしい男は便所に隠れて一時難をのがれたものの結局は連行されてしまった、その後別の場所の記憶があり、母らしい人が他家に手伝に行って夜遅く帰り、自分は姉と思われる者と一緒にいた(姉は二人いたように思うというが判然としない。)、母の行っている家に行くと大きなガチョウがいて、それがこわかった記憶がある、またその後多勢の人と一緒に朝日を背に夕日を正面に迎えて(西方に向って)歩いた記憶、荷車の下で寝たような記憶などもあるというのである。

曲民利はその後ハルピン市道外区南平街二八号の曲浜慶(現在の中国字による表示は「曲」であるが、本審判においては上記のとおり表示する。)に引き取られ、養育された。曲浜慶の職業はトラックを用いる運送業者若しくはトラックの運転手であった模様である。曲浜慶にはその父母がおり、また先妻があったが、昭和二五年頃先妻と別れて後妻を迎え、後妻との間に一男三女をもうけた。

曲民利が曲家に移ってからの記憶として、当初は言葉(中国語)がわからず、養父等から教えられたこと、小学校入学以前近所の子供と遊んでいる折にけんかになると「小日本鬼子」(日本人の子であることをののしるの意であるという。)と言われていじめられたこと、小学校入学後は学友は皆曲民利を日本人と言っていたこと等の記憶がある。

曲民利は昭和二四年南馬路小学校入学、昭和二九年ハルピン第七中学校入学、昭和三二年同校を卒業し、その後農業労働、工員などの職業に従事してきた。昭和三二年一七歳の頃曲家でおもしろくないことがあり、三日程家出をしたことがあるが、家に帰ってみると養父が養母などに「民利は日本人に日本へ連れ帰ってもらったのだろう」と話していたこともあった。

かくして曲民利は次第に日本人であることの自覚を強め、父母を捜したいと切望するようになり、昭和四一年八月から日本の厚生省あてに身元調査を求める書簡を寄せたが、右の際には、伝え聞いた崎玉県出身の斎藤勇なる者に境遇が似ているとして斎藤勇の名を用いた。また、翌四二年には中国政府から中国籍に関する「改籍」(申立人の陳述書のまま)の許可を得て外国人居留証明を取得するに至った。

3 申立人と曲民利の文通

かかるところ、昭和四二年に至り申立人は新聞、テレビ等により中国から帰国した岡本丞博を知り、札幌市に同人を訪ね、伊藤司のことを話し捜索を依頼したところ、同人は在ハルピンの日本人数名と連絡をとった。その中にハルピンにおける岡本の同僚であった曲民利も含まれていたが、曲民利の側では岡本の知らせた伊藤司の状況が自分と似通っていると考え、その旨を岡本に書き送った結果、岡本も申立人に対し曲民利が伊藤司と思われると話し、申立人と曲民利との間に文通が開始された。

右文通はおおむね、申立人が日本文を書いて送り、曲は日本語を解する者にそれを読んでもらい、曲の側からは日本文を書ける者の代筆によって申立人の許に日本文の手紙を書き送る方法により行なわれ、このため結果的には正確な事情の疎通を欠くことになったと思われるが、いずれにせよ文通は昭和四三年から曲が帰国する昭和四九年まで六年余にわたって続けられた。その間には申立人の要望によって曲が自己の掌紋を送ったり、自己の種痘の跡の数を知らせたりすることもあったのであるが、申立人は曲民利が司であると信じて疑わなかった如くであり、曲の側でもそのように考えるに至った模様である(この間昭和四六年頃申立人の知人で在ハルピンの鈴木節子(あるいは市子)から申立人あてに、曲民利は伊藤司ではないとする情報が送られたが、同人はかつて申立人に誤った情報を提供したことがあり、申立人は同人を信頼せず、右の情報も意に介しなかった。)。

この間曲民利は、昭和四三年頃一度結婚して一児をもうけたが、間もなく妻子を失ない、その後昭和四八年一月一八日現在の妻舒桂(昭和一五年五月四日生。同人もその後日本名山田のり子なる日本人であるとして当庁に就籍許可審判の申立をした。)と中国の方式により再婚し、同女には舒恵敏なる子があったが、更に曲は同女との間に舒(あるいは舒陽。昭和四五年二月四日生)及び荘一(昭和四八年一一月二八日生)の二児をもうけた。

4 曲民利の帰国及びその後の経緯

かくして曲民利は昭和四九年一二月三日妻子と共に日本に帰り、申立人の二女洋子及び三女光子らがこれを出迎えたのであるが、右洋子らは初対面で自分の弟ではないとの印象を得たという。曲一家は直ちに申立人の居住する北海道河東郡鹿追町に赴き、申立人と対面をすませた後同町の提供を受けて町営住宅に居住するに至ったが、申立人は曲民利と会っていろいろ話すうち、曲は自分の子ではないとの疑いを強めるに至り、同時にその後新得警察署の警察官が申立人の二女洋子などから曲民利は伊藤司ではないのではないかとの情報を得て旅券法違反等の捜査を開始し、申立人方に事情聴取に訪ねたことから、申立人は、曲民利が自己をあざむいて伊藤司の名を冒用したものと思い込むようになった。

かかるところ、昭和五〇年三月曲民利は日本語を学びあわせて職業訓練を受けるべく家族と共に上京したが、その後本件が報道機関の知るところとなり、申立人も同年九月六日記者会見を行ない、次の事実を指摘して曲民利は伊藤司ではないと発表した。

(1) 伊藤司は凍傷のため歩行すら困難な状態であったのに、曲民利にはその傷跡がない。

(2) 曲民利は幼児期のことを話さない。

(3) 手相が違う。

(4) 曲民利の体型は申立人及びその家族と似たところがない。

(5) 血液型は申立人はO型、実父荘治はA型であり、司はA型であったはずであるが、警察官によると曲民利の血液型はA型ではないとのことである。

そして、この頃から本件は広く報道されるようになった。

ところで、曲民利は昭和五〇年一二月一一日、東京都江東区長あてに自己を伊藤司であるとして、前記舒桂との婚姻届、同女との間の子舒(舒陽ともいう。)の認知届並びに長男荘一の出生届をなしたため、いずれも伊藤司の本籍地に送付され、申立の実情4掲記のとおり、右婚姻及び認知事項は伊藤司の身分事項欄に記載され、また同戸籍に長男荘一が入籍するに至った。もっともその後昭和五二年二月五日付届出により、右婚姻事項は「昭和四八年一月一八日国籍中国舒桂と同国の方式により婚姻」した旨に訂正された。

5 本件戸籍訂正の申立等

申立人は昭和五一年九月二〇日本籍所在地である秋田家庭裁判所本荘支部に本件戸籍訂正許可申立を行ない、同支部は同月三〇日本件を申立人の住所地を管轄する釧路家庭裁判所帯広支部に移送し、同支部はある程度の調査をした後昭和五二年八月一日本件を当庁に移送した。

ところで、本件申立後の昭和五二年一一月八日曲民利は当庁に就籍許可の申立を行ない(当庁昭和五二年(家)第八三七五号)、本件とほぼ並行して審理が行なわれているが、同事件においては、本項冒頭(2)に掲記のとおり、曲民利の要請により中国から送付された曲浜慶作成の養子証明と題する文書(中国公証員の認証あるもの)、同人作成の養子証明と題する書面及び扶養伊藤司経過と題する書面が提出されているが、これらの中には、曲浜慶が昭和二一年の一一月にハルピン市馬家溝の日本人難民収容所(旧満州の時の日本人学校)で、日本人の男の子を一人もらい受けて養子とし、中国名を曲民利と名づけたものである旨、当初は曲民利の実の弟にあたる子をもらい受けたが、泣き続けるためこれを母親に返し、曲民利をもらったものである旨の記述がある。

なお、申立人はその後新たにハルピン在住の王坤なる者と文通を始め、現在では同人が伊藤司であると信ずるに至った模様である。

二  伊藤司と曲民利とが同一人であるか否かについて

以上が本件の概要であるが、本件の問題点は、曲民利が申立人の長男の伊藤司であるか否かの点であるから、更に立ち入ってこの点を検討する。

1  まず、曲民利が伊藤司と同一人物ではないかと疑うべき資料ないし事情もないではないので、これらを検討する。

(一) 曲民利は、当初厚生省に寄せた書簡三通(本項冒頭の(2)中に掲記したもの)によると、預けられた当時約五、六歳であったと陳述しており、また、曲浜慶作成の書面によれば、曲民利をもらい受けた時六歳であったというが、伊藤司の出生年月日は昭和一五年二月二六日であるから、両者の年齢が比較的近似することとなる。

(二) 曲民利は、当初厚生省に寄せた前記書簡の中で父親の職業は開拓団員であったと思われると述べ、他方前認定のとおり伊藤司の父荘治も開拓団員であったから、曲民利の陳述が正しいとすると、この点では比較的類似していることとなる(しかし、曲民利の右陳述は推定に基づくものであって確実でなく、また当時満州の農村部にいた日本人はほとんど開拓団員として同地方に渡ったものではないかと推測されるので、類似性が高いわけではない。)。

(三) 家族の構成について、曲民利は同じく厚生省あての前記書簡の中で、父母と姉二人、弟一人と述べているが、伊藤司の側の当時の家族構成は三人の姉及び弟一人であったから、曲の記憶及び陳述が正確であれば、比較的類似していることとなる(しかし、伊藤司の弟は昭和二〇年九月に死亡しているのに反し、曲民利の側では曲浜慶の書面による限り少なくも曲民利が預けられた当時弟も生存していたことになり、両者はくい違う。)。

(四) また、前認定のとおり、申立人と曲とは六年余にもわたって文通を継続し、多数の書簡を交換しており、言語の相違があるとはいえ、その間当事者が別人であることを発見しえなかったことは、あるいは両者が同一人ではないかと疑わしめる理由ともなりうる。

(五) そのほか、類似点とはいえないが、曲民利の問題は同人の帰国後しばしば報道されており、中国からの引揚者の知るところとなっていると思われるのに、今日に至るまで曲を知っているという者が現われていないのであるが、このことも、あるいは曲民利と伊藤司とが同一人物なのではないかと疑わしめる一事情となしえないでもない。

しかしながら、これらはいずれも単に若干の類似点があるというにとどまるものであって、同一性の根拠となし難いばかりか、右に見たとおりやや仔細に検討すれば、両者の間にくい違いの多いことが見出されるのである。

2  そして、反面異なる状況として、次の諸点が挙げられる。

(一) まず、開拓団の所在地について、申立人の場合はハルピン郊外の顧郷屯であり、申立人に対する審問の結果によると、ハルピン市から約八里の位置にあるというのである。これに対し、曲民利の厚生省あて書簡(前出)によると、開拓団の位地は牡丹江方面とされている。もっともこの点は曲民利の記憶も正確なものではなく、開拓団の所在地から朝日を背に夕日に向かって、すなわち西方に向って行動し、何日かかかってハルピンに着いたというところから推測したものであって、正確性に疑問は残るが、それでも、両者の開拓団の所在地が異なる蓋然性は高いと思われる。

(二) 次に父の行動についてであるが、伊藤司の側では前認定のとおり伊藤司の父荘治は昭和二〇年七月に現地召集となったことが明らかであるが、曲民利の側では前認定の事実からすると、その父はソ連軍に逮捕された可能性が強く、この点では状況が明らかに異なっている。

(三) 終戦後の行動の点について、前認定のとおり申立人及び伊藤司の側は阿城県収容所にいたというのであるが、曲民利の側では母と共に村に居住していて、その後にハルピン市の難民収容所に移ったというものであり、この点でも状況が異なっている。

(四) 預けられた際の状況は、伊藤司については前認定のとおり申立人が昭和二一年三月ハルピン市太古南五道街の花屋の王于云という者に預けたというのであるが、曲民利については養父曲浜慶作成の書面によると、前認定のとおりハルピン市道外区南平街に居住していた曲浜慶がハルピン市馬家溝の難民収容所で曲民利をもらい受けたというのであり、しかも当初曲民利の弟をもらったがこれを返して代りに曲民利をもらうこととなったというものであって、預けられた日時、預けられた場所、預けられた状況のいずれをとっても両者は明らかに異なっている。

(五) 関係者の血液型は、申立人の供述によると申立人はO型、父伊藤荘治と伊藤司はA型であり、これらは戦時中であったから万一の場合に備えて正確を期していたというのであるが、記録中の血液型に関する診断書によると曲民利はO型であって、申立人及び伊藤荘治とは矛盾しないが、申立人の記憶する伊藤司のそれとは異なっている。

(六) 前述のとおり申立人の供述によると伊藤司は足に重度の凍傷を負っていたとあり、右供述は措信しうるものというべきであるが、曲民利の足には凍傷痕が見られない。

(七) 申立人の供述によると、申立人の記憶する伊藤司の掌は、俗に「百にぎり」という特徴のある掌紋であったが、申立人が曲民利の掌紋を見たところ、申立人の記億とは異なったものであったという(この点曲民利は申立人との文通の過程で掌紋を送っており、申立人もこれを見たのであるが、紙面に写した掌紋が明瞭でなかった模様である。)。

(八) 申立人の家族はいずれも長身であり、顔は面長であるが、曲民利は背はさほど高くなく、顔も比較的角ばっている点でも異なり、申立人の家族や親族も曲民利と接して異なる印象を受けたという。

以上の諸点は、当事者の記憶や印象等に基礎を置いているものが多いので、(四)を除くと、一つ一つはいずれも絶対とはいい難いものであるが、以上を総合して考えるとき、前記1の類似点にもかかわらず、伊藤司と曲民利とは同一人物ではないと断定してまちがいないと考えられる。万全を期するためには申立人と曲民利間の親子関係の存否について鑑定を行なうにしくはないが、右に述べたとおり曲は伊藤司とは別人であって申立人及び亡伊藤荘治との間に親子関係の存在しないことは明白であり、あえて鑑定を実施する必要に乏しいのみならず、曲が鑑定にやや消極的な態度をとっていること等を斟酌して、鑑定は行なわないこととした。

なおまた、申立人が現在文通している王坤なる人物が真の伊藤司であるか否かについては、当裁判所は特に詳細な調査を行なっていないので、判断すべき資料を有しないし、その必要も少ないと思料する。

三  結論

このように伊藤司と曲民利が別個の人物であるとすると、伊藤司の戸籍に記載された同人の婚姻事項、認知事項、婚姻事項の訂正事項並びに長男荘一の記載は、いずれも曲民利に関するものではあっても伊藤司に関するものではなく、これらの届出はいずれも錯誤によるものであり、これらの記載も錯誤によるものというべきであるから、これらをすべて消除する訂正をなすべきものである(後に曲民利に関する戸籍が編製された場合には、これらの事項はそこに記載されるべきこととなろう。)。

そして、申立人は伊藤司の母であるから、右戸籍の訂正の許可を得てその届出をなすにつき正当な利害関係を有することも明らかである。

よって、本件申立を認容し、主文のとおり審判する。

(家事審判官 岩井俊)

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